認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

認知症かどうかが知りたい:追記あり

「ご家族は、こちらの患者さんが認知症かどうかを知りたいそうです。」

とある認知症外来で、このセリフを耳にして久しぶりに覚えた違和感。

 

「『認知症』かどうかがわかったら、何なのだろうか?」

 

検査の結果、限りなく認知症と呼ぶに相応わしい微妙な認知機能の人に、「かなり認知症に近い状態である。」と伝えれば本人には安心され、「軽度の認知症です。」と伝えれば、納得できたと家族に言われることは多い。

なんだかその人のこれからの人生を、認知症か否かで区別するようで気持ち悪いので、認知症について話す時、敢えて『認知症』という言葉を敢えて避けてきた自分がいることに気がついた。

 

話は戻って、先ほどの疑問符には以下の内容が省略されている。

認知症という言葉は1つの病気を表す言葉ではない。なので、

 

①今のこの生きづらさや様子の変化を、本人や周りがどう捉えれば良いのか?

②原因として考えられる病気があるのか?それは治療できるものなのか?進行予防できるものなのか?

③この状況は、今後どのような経過を辿ってゆく可能性があるのだろうか?

④今、そして来るべき(あるいは来るかもしれない)未来に対し、どのような対応や備えをするべきだろうか?

 

実際に認知症を生きる本人において、重要なことは①〜④。

自分にとって何が幸せかが大切だという話は、以前も書いた通り。

 

springplanting.hatenablog.com

 

これらの説明のに、認知症という診断名をことさら必要とする理由があるとすれば、それは何だろう?」

 

 

ここで、これまでの経験をたどってみると、

 

❶ 運転免許の返納を考えている:現在の道交法では認知症と断定されると運転を継続できない。「認知症を来す病気かもしれないが、発症はしていないため認知症とは言えない。」というグレーゾーンの存在は重要なポイント。

❷ 介護認定(介護サービスを受けるための制度)を受けたり、グループホーム認知症の方の居住型介護施設)に入所する予定がある:認知症という名称を、医師の診断名に盛り込むことを求められる場合がある。

認知症と断定されたら、患者さんが登録され発動されるパスがある:認知症ケアパスなどの地域のシステム

 

「私は認知症です。」と自己紹介されてわかることと言えば、

「コミュニケーションをとる時には少し注意しよう。」

「日常生活で、本人も気づかないうちにできてないことがあるかもしれないから、配慮しなきゃな。」

など。

少しマニアックに、原因と考えられている病気について学べば、TPOに合わせた対応もある程度は可能だし、互いの自己効力感も得られやすいだろうが…

 

単に『認知症か否か』を知ることにも、何か意味があるのだろうか?

❶〜❸以外の理由で、認知症の名称が必要な場面があるならば、どんな場面だろうか?

学びのネタ発見。