認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

運転免許取り消しの診断

認知症と診断されると運転免許を取り消されることになっている。

「あなたはこう言う理由で認知症と診断されます。」

理想「ハイそうですか。わかりました。返納します。」

現実認知症かどうかは知りませんが、運転はまだ出来るし、〇〇歳まで(又はあと2〜3年)は乗るつもりです。」(心の声: 納得できません。返納する気はありません。)

 

  クレームやトラブルの原因になるのでは?訴訟を起こされたらどうする?任意通報制度(本人の同意なく医師が公安へ通報する制度)は利用しなくていいの?そこら辺の混みいった問題を現場に丸投げしているのでは?このような不安が声高に叫ばれるほどに、医療現場は運転免許に関わる診断には慎重になっている。

私の周囲では診断書の作成を、かかりつけ医ではなく、専門病院に託すことが殆どだ(免許を取り消すのは国の判断)。

一方、認知症に関わりの深い関係者としては、公共のルールを守るべきという義務感と同時に、認知症者から自動車を奪うことの生活機能と認知機能に与える影響の方が心配である。

その葛藤から、本人の心の準備も整わない内にも車なしの生活設計を勧めてはいるが、事前準備が整った経験は未だなく、トラブルの引き金が必要だ。経験上、特に男性は引きこもると鬱になる傾向が強く、生活意欲が急激に無くなったり、時に迷子の散歩(いわゆる徘徊)に出かけてしまう。

 より自由に、願望を満たすために行動半径を広げる車。この行為自体は人の本能に近い。行動半径が広がった大人の、自由で自立した生活の象徴である車。なくなってどう生活するのか想像ができない。居心地の良い場所から動かなければならない恐怖、なんなら本能の欲望、折角得た能力への愛着や執着、その放棄を迫られる、生存を脅かされる程の、脅威に近い空気感。加えて認知症と診断されることに対する心理的抵抗や、病識の低下と言われる、病んでいることに対する否認。

(むしろ、これらを自ら克服出来るならば、認知機能のみならず魂レベルがかなり高い究極の大人と思われる。)

 

診断する側)   恐怖心 + 職責・義務    vs    される側)   恐怖心 + 自尊心    

  

この対立を認知症の定義で解決する方法。

以下次号