認知症の定義と運転免許
前回に引き続き。
診断する側) 恐怖心 + 職責・義務 vs される側) 恐怖心 + 自尊心
この構図を今の認知症の定義に当てはめて使われるロジックの一つは、
「認知機能は低下しており、病気かもしれないが、生活機能は保たれている」
認知機能の変化はあるけれども、自動車運転という生活機能に支障はなく認知症とは言えない、といえれば、奪う恐怖と奪われる恐怖も緩和される。
どこか違和感が残る私。しかし、病気だけれども症状がないという考え方は、病気を研究する分野では成り立つ。preclinical という概念は専門家には成り立ちやすいロジック。
では、既に他の生活機能が低下している場合はどうする?
平成30年2月の警察庁の報告をみると、高齢者の死亡事故は車両単独によるものが多い。死亡事故の被害者の大半は本人か同乗者と考えられる。
https://www.npa.go.jp/toukei/koutuu48/H29siboubunnseki.pdf
法律で決められれば日本国民が守るルールとなるが、その判断基準も曖昧で、本人の生存能力を否定するものではないし、誰も悪くない。
身体の老化は進み、車への依存心は増えるばかりで、先になってやめることなど出来るだろうか。脳の老化が進めば、うまくできているかどうかの判断も難しくなり、結果、事故を起こして車と免許を「取り上げられる」人の多い事実。
あなたは、自分がどうなったとき、自身で車をやめる決断をできると考えているのですか?
現状を見つめて思う私の印象や疑問を、人生の先輩にそのまま伝えてみる。
色々な経験が、私の職責は説得することではなく、本人にプライドを持って、現実の選択をして貰えるよう促すことだと知らせてくれた。
「認知症かどうかは関係ない。今の認知機能が運転に支障があるのかないのか、ただそれだけで判断しませんか。」
こう話すとなんらかの共感を得られる。診断を受ける病院の規模(ネームバリューと検査の詳しさ)の影響は否めないが。
認知症とはなにか?医療の現場では、説明と同意、告知と納得の場面でその定義の言語化は重要だ。しかし、対話による第3の道の検討に於いては、人生のスイッチングポイントのキーワードであるに過ぎない気がする。
認知症が疑われた時、本人はその言葉にどういうイメージを持っているのか、認知症と診断されることで何が脅かされると思っているのか、これを手掛かりに、状況に応じて使いやすい定義を組みこんだストーリーを、本人とともに作ってゆく。
人間における物語の威力は他の比ではない。
最近、そんなことを考えている私は、早く自動運転・GPS管理の格安無人タクシーが走ることを心から期待している。
私が執着していることは何だろう。十分に常識的に育った自分に、嘘をつきたくないということだろうか。それとも、拡大の自由を私自身が奪われたくないということだろうか。