認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

どうしたらいいですか?

同じテーマ(課題)に向き合っている人とは、

気付くポイントが似てくるので、話が早い。

 

「これは課題だ。」と思うことに、課題性を見つけてくれる。

「課題」が何なのか、それを互いに理解し合えれば

「答え」や「手段」を一緒に探すことができる。

 

その出来事の「課題」性を、どこまで認識できるかは、

それが「課題」であることを示す「原因」や「理由」を

理解できないことには始まらない。

 

そして、「原因」や「理由」とは、結局のところ

哲学だ。

 

自分自身の哲学が、

ソクラテスや、スピノザや、ハイデッガーなど、

後世にも普遍性を感じさせるような言葉で

何度も何度も語りつがれた何かであれば、

共感してくれる人は多いのかもしれない。

 

しかし、現実は、

親の思考の猿真似だったり、

学校の先生が何気なく言った常識という一言であったり、

ある時テレビで流行っていた人の歌の歌詞だったり、

どこかで読んだ本の一節だったり、

ある日、それらが現実のように感じられた、

たった一つの出来事を確信してしまったものだったりする。

 

多くは他人の哲学で、

それは当然のことながら、

残念なのは、どの哲学でもって生きるのか、

自分で取捨選択してこなかったから、

自分こそが、自分の哲学を言葉で、態度で

表現できなくなっている場合だ。

 

そんな時、人は混乱する。

 

正しさ、承認欲求、他人を助けるため、

自分以外の誰かに心を預けて

唯一の不法侵入アラームである感情を

言葉にすることを封印する。

 

心の深部に、誰か別の人を住まわせていると、

誰かに救いを求めながら、

これ以上誰かに関わられることを拒絶する。

 

認知症の家族関係に疲れた人、

職場の人間関係に悩む人が、

最初に口にする

「どうしたらいいですか?」

という質問には、

「私はいったい、自分自身をどうしたいのでしょうか?」

という、

自分自身の哲学を問う声が聞こえてくる。