改) 介護者のあるべき姿
「地獄への道は、善意で敷き詰められている。」
介護施設で見た光景は、なんとも奇妙なものだった。
介護職員さんはみんな笑顔で優しく熱心だった。
本当に甲斐甲斐しく、利用者さんの衣類の着脱から洗濯物から入浴、排泄の介助まで、
転ばないように、ケガをしないように、先回り先回りで動いていた。
誤嚥防止に食事の介助もしていた。
職員さんの行動目標は、安定して、数をこなすことだった。
職員さんは活動的だったが、利用者さんが活発になって行く様子はなかった。
私の祖父は2ー3年の入院生活で寝たきりになってしまったが、寝たきりになることが目的で入院したわけではない。
今ある環境の中で、前向きに生きる気力を持てるようにさえなれればそれで良かった。
寧ろ、その姿以外に、元気になったと思える形をイメージできない。
但し、それは『居候の身』では簡単なことではない。
誰かの家でも、入院でも、施設でも同じこと。
集団・順番・安全第一を遵守しようとするときの、『待つ』『合わせる』という行為の要請や強要は、ジワジワと自主性や主体性、行動力を奪って行く。
限られた場所、限られた道具、限られた人手で対応する場合の『時間制限・時間短縮』という行動目標は、互いの経験値を稼ぐ機会を奪って行く。
そんな環境で、無難に過ごすことが目標となれば、気力の方向は制限され、必ずしも自分の『前』を向けるとは限らない。
気力がまだ残り、行き場を失ったら、どこへはけ口を求めるだろう。
集団に向かい自我を通そうとすれば、それは『問題行動』とされうる。
元気になる為の施設で元気を無くして行く。本末転倒だ。
そう思っていたら、その思いを形にし実践している理学療法士さんの記事を見つけ、講義を受けてみた。
泣けた。
「動き出しは当事者から」
https://www.nihoniryo-c.ac.jp/uploads/2016/05/337e6e6ef7e4a42478dc4b5ca2090edb.pdf
「自分を動かすことができるのは自分だけ。」
この肉体のルール、脳と神経と運動器の連携システムに沿った当たり前の介助で、人を文字通り『自ら動かす』。
自分を変えられるのは自分だけ。
他人ができるのは、その人の脳をその気にさせる刺激を与へ続けることだけ。
変化とは新たな目標で、それに応じた学習が必要。
目標は元気になること?管理されること?
学習とは繰り返す経験による記憶の定着。
本人が動く介助を始めれば、本人が動き出す。
管理するための支援を始めれば…
「大丈夫だよ。安心して。頑張ろう。おめでとう。ありがとう。」
この言葉を、どんな意図で使うのか?
職員さんが、動作の目的を達成することを目標に、甲斐甲斐しくお世話をすればするほど、利用者さんの学習の機会は奪われる。
今必要な動作を遂げることは短期目標。
では、長期目標は?
元気になるという結果を目標に生きてもらいたいけれど、
安全に数をこなし続けられることを目標にしてしまうと、
その先にあるのは、他人任せの無気力な自分の姿。
おそらくこれが人生の地獄。
短期目標と長期目標にズレがある、それもまた地獄への道。
「皆さん、穏やかで静かにお暮らしですね。」
この生ぬるさの生き地獄に浸っているのは、別に高齢者ばかりではない。