認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

改) 介護者のあるべき姿

「地獄への道は、善意で敷き詰められている。」

 

介護施設で見た光景は、なんとも奇妙なものだった。

介護職員さんはみんな笑顔で優しく熱心だった。

本当に甲斐甲斐しく、利用者さんの衣類の着脱から洗濯物から入浴、排泄の介助まで、

転ばないように、ケガをしないように、先回り先回りで動いていた。

誤嚥防止に食事の介助もしていた。

職員さんの行動目標は、安定して、数をこなすことだった。

職員さんは活動的だったが、利用者さんが活発になって行く様子はなかった。

 

私の祖父は2ー3年の入院生活で寝たきりになってしまったが、寝たきりになることが目的で入院したわけではない。

今ある環境の中で、前向きに生きる気力を持てるようにさえなれればそれで良かった。

寧ろ、その姿以外に、元気になったと思える形をイメージできない。

但し、それは『居候の身』では簡単なことではない。

誰かの家でも、入院でも、施設でも同じこと。

集団・順番・安全第一を遵守しようとするときの、『待つ』『合わせる』という行為の要請や強要は、ジワジワと自主性や主体性、行動力を奪って行く。

限られた場所、限られた道具、限られた人手で対応する場合の『時間制限・時間短縮』という行動目標は、互いの経験値を稼ぐ機会を奪って行く。

そんな環境で、無難に過ごすことが目標となれば、気力の方向は制限され、必ずしも自分の『前』を向けるとは限らない。

気力がまだ残り、行き場を失ったら、どこへはけ口を求めるだろう。

集団に向かい自我を通そうとすれば、それは『問題行動』とされうる。

 

元気になる為の施設で元気を無くして行く。本末転倒だ。

そう思っていたら、その思いを形にし実践している理学療法士さんの記事を見つけ、講義を受けてみた。

泣けた。

 

「動き出しは当事者から」

https://www.nihoniryo-c.ac.jp/uploads/2016/05/337e6e6ef7e4a42478dc4b5ca2090edb.pdf

 

「自分を動かすことができるのは自分だけ。」

この肉体のルール、脳と神経と運動器の連携システムに沿った当たり前の介助で、人を文字通り『自ら動かす』。

 

自分を変えられるのは自分だけ。

他人ができるのは、その人の脳をその気にさせる刺激を与へ続けることだけ。

変化とは新たな目標で、それに応じた学習が必要。

目標は元気になること?管理されること?

学習とは繰り返す経験による記憶の定着。

本人が動く介助を始めれば、本人が動き出す。

管理するための支援を始めれば…

「大丈夫だよ。安心して。頑張ろう。おめでとう。ありがとう。」

この言葉を、どんな意図で使うのか?

 

職員さんが、動作の目的を達成することを目標に、甲斐甲斐しくお世話をすればするほど、利用者さんの学習の機会は奪われる。

今必要な動作を遂げることは短期目標。

では、長期目標は?

元気になるという結果を目標に生きてもらいたいけれど、

安全に数をこなし続けられることを目標にしてしまうと、

その先にあるのは、他人任せの無気力な自分の姿。

おそらくこれが人生の地獄。

短期目標と長期目標にズレがある、それもまた地獄への道。

 

「皆さん、穏やかで静かにお暮らしですね。」

この生ぬるさの生き地獄に浸っているのは、別に高齢者ばかりではない。