言葉の抽象化
認知症を診断するための検査のなかに、前頭葉という脳の前半分の機能を調べるFABがある。
その一番最初の問題が言語の抽象化能力を調べるものだ。
どういう問題かというと、例えば、
のように、複数の物事に共通する項目を述べるもの。
*実際のテスト内容とは異なります。
学習や、記憶、その応用の過程において、抽象化というプロセスはとても重要である。脳の神経細胞を使った記憶回路の成り立ちそのものと言っても良い。
しかし、今日は、そのメカニズムについて考えたわけではない。
先ほど顔を洗っている時に、ふと尾崎豊の歌が耳をよぎった。
そして、改めて気が付いてしまった。
抽象化のプロセス無くして、若かりし頃、あんなに彼の歌の歌詞に心揺さぶられることはなかったのではないだろうか?
当時、時に涙ぐむほどのカタルシスを感じながら、カラオケといえば『尾崎』を熱唱していた。
しかし、普通に考えて彼と心情まで一緒なんてありえない。生まれ育った環境は同じ時代に生きていた日本人である以外にほとんどかぶらない。
ではなぜ、そんな私がまるで自分の心情を吐露するかのように彼の歌に入り込むのか?
因みに、私にとって彼の歌は概ねラブソングとして認識されている。
なぜ、数あるミュージシャンの中で尾崎だったのか?
抽象化とは、先ほどのテストにもあるように、複数の物事に共通する項目を理解することである。
さらにこれを概念化することによって、言葉のイメージを別の方向から解釈する。概念化とは、抽象化した内容を別の表現に置き換えたもの。ことわざや例え話も然り。
具体的)「茶碗と箸とお皿を洗う。」
抽象的)「食器を洗う。」
概念的)「食事の後片付けをする。」
「認知症の人が言うことを聞いてくれない。」というセリフは介護者から余りに普通に聞かれるもの。
脳の老化や病気によって認知機能が低下すると、抽象化の機能が弱る。
抽象的なものを理解する能力が弱ると、概念化された言い回しをされても、具体的に何をすれば良いのかは思いつかない。頭の中で翻訳できない。
結果、(本人)何を要求されているのかわからない=(第3者)話が通じてない=(介護者)言うことを聞かない
そんなすれ違いで、ストレスを感じてしまうことも少なくないようだ。
この場合、話す内容を『具体的』にすれば良い。
因みに『今ここ』の意識も重要だ。「後でこれやっといて。」の様な行動の予約を介護者が取りたくなることは多く、これも叶いにくい。
一方、抽象化の世界観で生きており、結果、固有名詞が覚えられない人がいるという。・・・・・私のこと?
(ADHDのスペクトラムかとも思いつつ)抽象化の世界で生きすぎると、三次元で起こることの多くはいつか見た(聞いた)ものか興味のないものに分断されるのかもしれない。
ここで改めて尾崎豊の作る歌詞を振り返ってみる。
「校舎の影、芝生の上、吸い込まれる空(尾崎豊「卒業」より)」
具体的なセリフから視覚的にイメージする人、言葉から連想される学校の敷地内の様子、そこからまた思い出される当時の光景…
「幻とリアルな気持ち感じていた(尾崎豊「卒業」より)」
自分の経験、それに対する印象や感情を抽象化し、概念化して言葉にする。そこに共感を覚えた聴き手は、そこからまた別の感情や経験を思い浮かべる。
私の高校に芝生はなかったし、サボって空を眺めた記憶もない。今なら、これらの言葉から病院や介護施設など職場の景色を思い浮かべる。現実の病気と病院という非日常性も近い。そう、つい最近までカラオケがあると、ふと『尾崎』を熱唱したい衝動にかられる時があった。最近は単に接触がないだけ。
彼の作る歌詞は、少しの具体例と多くの概念化により成り立っている。それにはまっていた私は、“恋しいあなた”や“薬指のリング”などのよく聞く具体的歌詞よりも、抽象化や概念化の虚ろな世界に心を奪われていた。
デイ・サービスやデイ・ケアでカラオケは大人気。
あと2-30年も経てば、尾崎世代がその場でマイクを握る。
認知機能が低下してから聞くあのメロディー、あの歌詞。
泣けるのか、共感できるのか、それとも単に長期記憶に依存したレパートリーの一つとなっているのか。
うーむ・・・
『卒業』を熱唱していたら、歌詞の内容だけに、スタッフさんに苦笑いされそうな気がする。