認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

はじめての認知症外来

受診の目的がはっきりしていない診療には時間がかかる。

病院に来るまでには、何らかのいきさつがあったのだろう。

問診票の主訴の欄には特に記載がない。

困りごとの相談ですか?と質問すると、「勧められたから。」と主体的ではない様子。

生活の様子を伺い、介護疲労の原因になりそうな点を見つけ、改善を希望するか尋ねてみるが、特に困っていないとのこと。

認知機能の検査など評価をした後、病気のことなど一般的な話をしてみても、「難しいことはわかりません。」

色々な角度から質問説明を繰り返し、相手の琴線に触れそうになったと思ったら、「それは性格なので仕方がありません。」

では、自分の性格も含めて現状と向き合い介護に精進されているのかと思えば、介護者は精神安定剤を飲んでいたりする。

ここまでを全て、お互いが了解可能な共通の言語に落としていかなければならず、聞いているうちに、本人達も気づいていない課題も見えてきて迷路に迷いこむ。

 

他に出来ることは何か?介護サービスや薬の説明をすること?ご本人の病状と内服薬の副作用が疑われる所見の有無、ほかの認知症治療薬に期待される効果の説明をし、希望があれば薬の調整を検討するなどの提案。

他のかかりつけ医から処方されている薬である場合も多く、先方に言い出しにくいと躊躇される場合もあり、

であれば、紹介状のやりとりをするか、考え方のアドバイスをして終わりとなりそうだが「難しいことはわかりません。」に戻る。

 

ここまで、どんなに早口でも1時間半はくだらない時間がかかるだろう。

 

認知症療養支援プログラムを最初から組み立てておき、それに則るという解決方法もある。

完成していればオレンジプラン一部達成となりそうだが、さて、そのゴール設定とプロセスはどうあるべきだろうか?

 

認知症は今のところ治る病気ばかりが原因ではなく、治す=症状が消えるという、医療に求めがちな目標は達成できないという前提がある。

認知症治療薬と言われている薬も、使って効果があったからといって、通常1年後からは症状が進んでいくことが予測されるものだ。

そんな現状での認知症のゴール地点は寿命。それまでの時間を、皆んなが最も幸せに過ごせる状況を目指すことを、これまでも目標にしてきたのではなかったか?。

そのためには、何はなくとも各々に『幸せ』の定義が必要であり、それこそが受診の目的足り得るのだ。

幸せのためにこうありたいと望む姿は、これが困るという気付きから生まれる。

 

主体的に幸せを目指すような人が、目的も持たずに受診するとは考えにくい。

状況(環境)に流されて不完全燃焼な私も下に同じ。

思えば、認知症≒幸せという図式を思い浮かべられる人がどれほどいるのか?

認知症=受容(諦め)と奉仕(援助)と考えながら、幸せの形は見つけられるのか?

 

私自身の幸せとは何か。

 

その人生をかけるべき問いに向き合えない人達が、日々不安な現実と向き合いながら、誰かの命を支えている。

ここに来て、改めて人生に向き合うことを望むから、認知症外来には時間がかかる。