認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

介護者のできること〜家族の場合。

「地獄への道は、善意に敷き詰められている。」

 

ほんの2~3年の間に、認知症は軽度から高度になり、寝たきりの後他界してしまった祖父。

大手企業、省庁、医歯薬業、社会福祉貢献、普通以上に社会参加できる常識的な子供を持ち、

いわゆる、社会的入院のループへ組み込まれ拘束されていた最後。

 

「私達はあの頃、他のどんな要素があれば、祖父と共に、在宅での支援を続けられたろうか。」

 

自分達の出来たことを元に家族の役割を振り返ろうと

この問いを立てた瞬間に、

 

あの頃はどうだった、あの人はああだった、と、

環境アセスメント」の名の元に、

罪悪感、自分や他人の否定、恐怖、苦悩、嫉妬など、

こうだったら良かったという、考え以外のドロドロの感情が、

必ずしも祖父とは関係ないことも含めて蘇り、

 

答えを出せなくなってしまった。

そんな時はそもそもの問いが間違えている。

 

 

心で拒絶しながらも、衣食住を何とかするのが家族の義務と考える。

一緒には居たくないけれど、不遇な祖父であって欲しくないと望む。

 

「なんとかしなければ。」

 

そこに確かにあった「善意」が敷き詰められた道の先は、

祖父の、自分達の生活圏からの緩やかな排除であり、

叫んだり、家族に手紙を書いたりと、僅かばかりの抵抗を示しつつ、

排除されるがままに、1人病室で息をひきとる彼の最後だった。

その顔はムンク「叫び」よろしく、私には地獄にしか見えなかった。

 

 

介護施設と家族の違いは何だろう。

介護施設は介護をする・受けるための施設。

介護のし過ぎ、マイルールや時間割の押し付けが地獄への道程。

 

 

では家族は?

 

当時と今とでは、介護保険制度も生まれて介護支援環境が全然違う。

現在、家族として、認知症の家族と共に暮らすケースの特徴には2通りあり、

 

家族の歴史、絆、役割や責任、権利を強烈に意識しているケースと、

本人の意思と意欲と生存能力に任せているケース。

2世帯住居も多い。

 

そして疲弊して行くパターンは、どちらにしても、

そこに参加する人の、心ー身体ー思考のバランスが壊れたケース。

 

胸につまされる、胸が苦しい。

身体がしんどい。

こうすべき。当たり前。迷惑をかける。

 

思い通りになっていない現実の隙間を相手に埋めてもらうことを、自然に家族に期待する。

今まで通りでない自分を、相手を、ありのままには受け入れていない。

 

思うこと、感じること、その思考・感覚に至る歴史。

そこにあるのは、個人、そして家族という糸で組まれた物語。

採択してきた、知識や常識という名の、誰かが以前考えたストーリー。

 

家族という単位で物事を考えるとき、

わたし達は「物語」の視点から逃れることが難しい。

 

そんな家族介護者の出来ること。

 

家族の物語の取捨選択や再構築。

認知症の家族を、不快なストーリーから引き剥がす。

 

縁あって、今ここに集うブラザーフット感覚にまで家族関係をフラットにして、

いっそのこと、ぶつ切りの世界で、今、

本人が人として自立する上で必要としているのは何かを明らかにできるか?

 

自立することは、決して周りに都合良く生きれることじゃない。

 

一番その人に受け入れられやすい方法で、その選択肢を提示できるか?

 

ヒントや答えはその人の歴史に見つかるかもしれないから。

何より、今一番安心感を与えあえる関係かもしれないから。