認知症の延命治療:追記
「胃瘻をいれた状態での自然な死というのもあるのではないでしょうか。」
「一つの機能を失っても、生きて行ける方法があるならば、それを選択したいと思います。」
認知症の終末期、栄養や水分を口から摂取できなくなった家族を前に、呟かれた言葉たち。
アルツハイマー病やレビー小体病など、神経細胞が減り、その働きが悪くなる病気がある。
進行すると、幼少期にトレーニングされた排泄行為の自立が困難となり、
ついに、生れながらに持つ機能である嚥下の能力が失われる。
嚥下の重要な機能は2つ。
口の中の物を食道に送り込むことと、肺にものが入り込まないように気道を塞ぐこと。
失敗すると、窒息や治療の難しい肺炎を起こす。肺炎は死亡原因のトップ5に入る状態。
これとは逆に、乳房を吸うような「吸引反射」は前頭葉または広範囲に脳が障害された結果起こる。
脳の病気の進行は、反射を利用して、他の誰かが食べ物を口に入れる手伝いをすることはできても、本人が食道へ飲み込めない、という状況を作る。
認知症の延命治療とは、
個人として、人間として、動物としての脳神経の機能を徐々に失って行くという病気の最終ステージにおいて、
生命維持に関わる嚥下(時に呼吸)機能が失われ、病気とともに命の終焉を迎える段階で、
人工的な操作を加え、その自然経過を変えて行く行為。
食べられないときは胃瘻造設
胃瘻造設ができない場合は中心静脈栄養
呼吸機能が不十分なときは人工呼吸器
ペニシリンの投与によって負傷兵の死亡率が激減したように、
義足の装着によって歩行での移動が可能になったように、
延命治療によって命を繋ぐ選択は、
動物としては不自然に見えても、人間としては自然な行為とも考えられる。
決定的に違うのは、
認知症の最終段階でその選択を必要とするとき、
当の本人には選択するための意思決定能力が保たれていない可能性が高いこと。
そしてその状況は改善する見込みがないこと。その結果として、
認知症の延命治療のその先は、
肉体としてのその人の存在を、この世に繫ぎ止めるための関わりが主体となる。
医療経済の視点で語られることも多い延命治療について、
単純に医療費における終末期治療費の割合が多いことも事実であり、
人口減も加速する中、資源の再分配におけるその価値を問う人もいるだろう。
肉体と魂の自由を願う人や、輪廻転生を信じる人には延命行為自体を余計に感じるかもしれない。
その一方で、その人のこの世の存在にこそ、自分の生きる意味や役割を見出す人もいるだろう。
ここまで書いて、功利主義で有名なジェレミ・ベンサムが、本人の意思によりミイラ化され、死して150年を超えて今なおロンドンの大学で世間を眺めているという話を思い出した。
意識が肉体に宿っているか否か、この世に在りたいか否か、どういう形で在りたいか、自ら選択する人と、環境に支配される人がいる。
であるならば、人としての延命治療の選択における課題は、それをするかしないか結論することではない。
安易な意識決定は、実際には『選択』ではなく、環境に流されているだけになってしまう可能性が高い。
その人らしさ、介護者のイメージ、手技のリスク、その後予想される経過、
必要なのは、選択するプロセスをいちいち詳らかにしてゆく時間を、じっくりと丁寧に過ごすことだ。
そして、本人の幸せが尊重されてほしい。家族がどれほど尽くしていても、あくまで代理意思決定支援であることを、誰もが忘れてはならない。
一般的なリスクとベネフィットとその後の(外から見た)QOLの話に終始していた、自分への自戒と役割の再確認。
私に言葉は必要ない。ただその答えを見つけるための質問を重ねるだけ。