認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

物取られ妄想

あるはずの物がない時

 

物が無いことが自分のせいとは考えられない時

 

つまり、自分に思い当たる節がないとき

 

誰か物を持って行った人がいるかも、と考えるのは

 

仕方がないことかも知れない。

 

 

途中誰かに貸した記憶があって、

 

その人が「犯人」かもしれない、と疑った時点で、

 

持っていって使っている人がいる、

 

ではなく、

 

奪った人と奪われた人が脳内で設定されてしまう、

 

 

そのこと自体が既に妄想の火種

 

 

 

犯人=意図的行動、奪われる、ということ。奪われる=恐怖・怒りという設定。

 

ふと浮かんだ、自分の考え・推理・ある一つの可能性を、

 

ジョウシキ的な妥当性と記憶との照らし合わせで抑制できない、

 

そのうちに核心と変わってしまう、

 

物取られ妄想には、拭い去れない疑心と核心の幅があるような気もする

 

 

 

記憶というのは曖昧で、如何様にも捏造可能。

 

無視することも出来るシロモノ。

 

その取捨選択は、強く本人の感情・常識・妥当性と結びついている。

 

ベースにある、不安、恐怖、奪う人と奪われる人、犯人と被害者。

 

 

 

誰かによって誰かが傷つけられる。

 

人によって人が傷つく

 

人と人が争う。

 

親子とは

 

夫婦とは

 

他人と自分とは

 

 

 

モノのなかった時代から夢を形にし続けた、

 

有限な命を守る為、信頼、後に忠義をコミュニティーの中心に添えた、

 

数千年の文化の端の、オリ。

 

 

安らぎと喜びの中で行きたいとき、

 

なすべきことは犯人探しじゃない。

 

 

オリを、捨てよう。

 

孤独を受け入れよう。

 

意識を自分の感情にフォーカスし、

 

自分の思い込みを知ろう。