認知症が世界を変える

認知症の傍に四半世紀。日々医療の現場で認知症に思う、私の現在・過去・未来。

scansnap

 

気になる切り抜きや、

クリニックで保管すべき書類を、

事務方へ丸投げせずにデジタル化すべく、

 

専用のスキャナーを設置。

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複合機に干されかかっていたが、

 

複合機のそれとは別次元に便利で。

 

ScansnapMacの「プレビュー」アプリがあれば、

頭の中と書類の束がサクサクと分類されてゆく…

 

 

macOSのアプリ「プレビュー」は本当に便利で

PDF へ書き込み可能、サインも書ける。

分割、統合もページクリックで並べ替えるだけ。

 

ありがとう、iMac

 

PDF は便利だけれど、

きちっと綴られた本みたいで、

保存すると普通の本棚が

PCの中に置き換えられただけのような、

不自由さがある。

 

「プレビュー」のおかげで、本当に簡単に、

自分のためだけの資料を作ることができる。

 

 

 

 

思ったことが思ったようになる。

 

なんて嬉しいんだろう。

 

なんて爽快なんだろう。

 

 

これまで、いかに不快だったのか、

 

今になって気付いたいたりする。

 

 

そんな爽快感を、

 

 

思い出す機会すら

認知症になると減ってしまうだろう。

 

 

だから食べる

だから失禁する

だからベンを触る…

のかもしれない。

 

 

爽快感を味わう。

 

 

たとえ認知症であっても、

 

生理的欲求以外のことでも、

 

それは可能なことだと、

知ってる人は知っている。

 

その瞬間に立ち会う人でありたい。

介護者のできること〜家族の場合。

「地獄への道は、善意に敷き詰められている。」

 

ほんの2~3年の間に、認知症は軽度から高度になり、寝たきりの後他界してしまった祖父。

大手企業、省庁、医歯薬業、社会福祉貢献、普通以上に社会参加できる常識的な子供を持ち、

いわゆる、社会的入院のループへ組み込まれ拘束されていた最後。

 

「私達はあの頃、他のどんな要素があれば、祖父と共に、在宅での支援を続けられたろうか。」

 

自分達の出来たことを元に家族の役割を振り返ろうと

この問いを立てた瞬間に、

 

あの頃はどうだった、あの人はああだった、と、

環境アセスメント」の名の元に、

罪悪感、自分や他人の否定、恐怖、苦悩、嫉妬など、

こうだったら良かったという、考え以外のドロドロの感情が、

必ずしも祖父とは関係ないことも含めて蘇り、

 

答えを出せなくなってしまった。

そんな時はそもそもの問いが間違えている。

 

 

心で拒絶しながらも、衣食住を何とかするのが家族の義務と考える。

一緒には居たくないけれど、不遇な祖父であって欲しくないと望む。

 

「なんとかしなければ。」

 

そこに確かにあった「善意」が敷き詰められた道の先は、

祖父の、自分達の生活圏からの緩やかな排除であり、

叫んだり、家族に手紙を書いたりと、僅かばかりの抵抗を示しつつ、

排除されるがままに、1人病室で息をひきとる彼の最後だった。

その顔はムンク「叫び」よろしく、私には地獄にしか見えなかった。

 

 

介護施設と家族の違いは何だろう。

介護施設は介護をする・受けるための施設。

介護のし過ぎ、マイルールや時間割の押し付けが地獄への道程。

 

 

では家族は?

 

当時と今とでは、介護保険制度も生まれて介護支援環境が全然違う。

現在、家族として、認知症の家族と共に暮らすケースの特徴には2通りあり、

 

家族の歴史、絆、役割や責任、権利を強烈に意識しているケースと、

本人の意思と意欲と生存能力に任せているケース。

2世帯住居も多い。

 

そして疲弊して行くパターンは、どちらにしても、

そこに参加する人の、心ー身体ー思考のバランスが壊れたケース。

 

胸につまされる、胸が苦しい。

身体がしんどい。

こうすべき。当たり前。迷惑をかける。

 

思い通りになっていない現実の隙間を相手に埋めてもらうことを、自然に家族に期待する。

今まで通りでない自分を、相手を、ありのままには受け入れていない。

 

思うこと、感じること、その思考・感覚に至る歴史。

そこにあるのは、個人、そして家族という糸で組まれた物語。

採択してきた、知識や常識という名の、誰かが以前考えたストーリー。

 

家族という単位で物事を考えるとき、

わたし達は「物語」の視点から逃れることが難しい。

 

そんな家族介護者の出来ること。

 

家族の物語の取捨選択や再構築。

認知症の家族を、不快なストーリーから引き剥がす。

 

縁あって、今ここに集うブラザーフット感覚にまで家族関係をフラットにして、

いっそのこと、ぶつ切りの世界で、今、

本人が人として自立する上で必要としているのは何かを明らかにできるか?

 

自立することは、決して周りに都合良く生きれることじゃない。

 

一番その人に受け入れられやすい方法で、その選択肢を提示できるか?

 

ヒントや答えはその人の歴史に見つかるかもしれないから。

何より、今一番安心感を与えあえる関係かもしれないから。

 

 

 

 

改) 介護者のあるべき姿

「地獄への道は、善意で敷き詰められている。」

 

介護施設で見た光景は、なんとも奇妙なものだった。

介護職員さんはみんな笑顔で優しく熱心だった。

本当に甲斐甲斐しく、利用者さんの衣類の着脱から洗濯物から入浴、排泄の介助まで、

転ばないように、ケガをしないように、先回り先回りで動いていた。

誤嚥防止に食事の介助もしていた。

職員さんの行動目標は、安定して、数をこなすことだった。

職員さんは活動的だったが、利用者さんが活発になって行く様子はなかった。

 

私の祖父は2ー3年の入院生活で寝たきりになってしまったが、寝たきりになることが目的で入院したわけではない。

今ある環境の中で、前向きに生きる気力を持てるようにさえなれればそれで良かった。

寧ろ、その姿以外に、元気になったと思える形をイメージできない。

但し、それは『居候の身』では簡単なことではない。

誰かの家でも、入院でも、施設でも同じこと。

集団・順番・安全第一を遵守しようとするときの、『待つ』『合わせる』という行為の要請や強要は、ジワジワと自主性や主体性、行動力を奪って行く。

限られた場所、限られた道具、限られた人手で対応する場合の『時間制限・時間短縮』という行動目標は、互いの経験値を稼ぐ機会を奪って行く。

そんな環境で、無難に過ごすことが目標となれば、気力の方向は制限され、必ずしも自分の『前』を向けるとは限らない。

気力がまだ残り、行き場を失ったら、どこへはけ口を求めるだろう。

集団に向かい自我を通そうとすれば、それは『問題行動』とされうる。

 

元気になる為の施設で元気を無くして行く。本末転倒だ。

そう思っていたら、その思いを形にし実践している理学療法士さんの記事を見つけ、講義を受けてみた。

泣けた。

 

「動き出しは当事者から」

https://www.nihoniryo-c.ac.jp/uploads/2016/05/337e6e6ef7e4a42478dc4b5ca2090edb.pdf

 

「自分を動かすことができるのは自分だけ。」

この肉体のルール、脳と神経と運動器の連携システムに沿った当たり前の介助で、人を文字通り『自ら動かす』。

 

自分を変えられるのは自分だけ。

他人ができるのは、その人の脳をその気にさせる刺激を与へ続けることだけ。

変化とは新たな目標で、それに応じた学習が必要。

目標は元気になること?管理されること?

学習とは繰り返す経験による記憶の定着。

本人が動く介助を始めれば、本人が動き出す。

管理するための支援を始めれば…

「大丈夫だよ。安心して。頑張ろう。おめでとう。ありがとう。」

この言葉を、どんな意図で使うのか?

 

職員さんが、動作の目的を達成することを目標に、甲斐甲斐しくお世話をすればするほど、利用者さんの学習の機会は奪われる。

今必要な動作を遂げることは短期目標。

では、長期目標は?

元気になるという結果を目標に生きてもらいたいけれど、

安全に数をこなし続けられることを目標にしてしまうと、

その先にあるのは、他人任せの無気力な自分の姿。

おそらくこれが人生の地獄。

短期目標と長期目標にズレがある、それもまた地獄への道。

 

「皆さん、穏やかで静かにお暮らしですね。」

この生ぬるさの生き地獄に浸っているのは、別に高齢者ばかりではない。

 

認知症に成り行く者

祖母が他界して数年の一人暮らしの後、幻覚妄想から住み慣れた家を離れ、子供達の家へ移り住んだ祖父。

毎日塞ぎ込んで、くよくよメソメソしていた祖父。

年の近い他人である私の父に煙たがられ、母の兄弟の家に移った祖父。

 

祖父が身を寄せる叔父の家の玄関先で、お盆の送り火を焚いている写真がある。

祖父、母の兄弟、その家族、私や父が写っている。みんな笑顔だ。

その叔父の家に住んでしばらくして、歩きにくさと腰痛のリハビリを目的に、祖父は入院した。

家にいてもゴロゴロするばかりだから体力が弱ったせいもあるとのこと。

最初は文句を言ったり、時折手紙を母宛に送っていた。

「助けてほしい、連れ出してほしい、あいつ(叔父)が俺をここに閉じ込める。」

嘘ではないと思ったが、正気なら黙って入院して治療を受ける筈だとも思った。

ちょっとボケてきた、とも思われていた。被害妄想が強すぎる、とも。

それから先、祖父が誰かの自宅に住むことはなかった。

何度目かの転院先は、精神科の閉鎖病棟だった。転院の理由ははっきりとはわからない。

私は受験生と部活動を理由にすっかり音信不通で、久しぶりにあった祖父は、ベッドに横たわり、寝ているのか起きているのかわからず、子供の顔も覚えていない、すっかり認知症の人になっていた。

 

この間長くても2ー3年。

2ー3年病院に拘束されたら、祖父は軽度認知症から高度認知症になった。

手足はやせ細り、口はあき、頬は痩けて、天井に視線を向け横たわるだけの存在になった。

 

もう誰のこともわからないだろうというくらい、面影も無くなるほどに痩せこけ、手足も動かさなくなった頃、私は大学に合格し、祖父に会いに行った。

格通知を見せた直後、「受かった‼︎」と突然祖父が大声をあげ、涙ぐんだ。

試験とは何で、合格という言葉の意味を知らないと、そもそも出来事を理解できない筈で、それが理解できたことがまず驚きだった。そして喜んでくれたのだと嬉しかった。

自分のことの様に喜んだ祖父の心には、実際にはどんな思いが浮かんだのだろう。何に喜び、何が嬉しかったのだろう。

私の努力を労うのとは何か違う、将来を祝福してくれるでもない、「おめでとう」という気持ち以外の、もっと祖父の個人的な思いが詰まっていた様な気がして、それを受け取ってしまった気がしている。

その1ヶ月後、祖父は1人静かに息を引き取った。

 

祖父がこんな風になってしまったのは、私達のせいではないのか。

私がもっと祖父の気持ちに寄り添って、遊んだり連れ出したりもすれば良かったのに。

私は将来、認知症の人と共に時間を過ごすことが仕事であれる人になろう。

こんな後悔は2度としなくて良いように。

 

そんな罪の意識と、脳という臓器の美しさと、認知症に引き寄せられ、驚くほど面倒見の良い人との巡り合わせで、今、私はここに居る。

 

認知症の皆さんと数多く出会い、そんな罪の意識と、私は漸くサヨナラできそうだ。

 

 

 

 

認知症かどうかが知りたい:追記あり

「ご家族は、こちらの患者さんが認知症かどうかを知りたいそうです。」

とある認知症外来で、このセリフを耳にして久しぶりに覚えた違和感。

 

「『認知症』かどうかがわかったら、何なのだろうか?」

 

検査の結果、限りなく認知症と呼ぶに相応わしい微妙な認知機能の人に、「かなり認知症に近い状態である。」と伝えれば本人には安心され、「軽度の認知症です。」と伝えれば、納得できたと家族に言われることは多い。

なんだかその人のこれからの人生を、認知症か否かで区別するようで気持ち悪いので、認知症について話す時、敢えて『認知症』という言葉を敢えて避けてきた自分がいることに気がついた。

 

話は戻って、先ほどの疑問符には以下の内容が省略されている。

認知症という言葉は1つの病気を表す言葉ではない。なので、

 

①今のこの生きづらさや様子の変化を、本人や周りがどう捉えれば良いのか?

②原因として考えられる病気があるのか?それは治療できるものなのか?進行予防できるものなのか?

③この状況は、今後どのような経過を辿ってゆく可能性があるのだろうか?

④今、そして来るべき(あるいは来るかもしれない)未来に対し、どのような対応や備えをするべきだろうか?

 

実際に認知症を生きる本人において、重要なことは①〜④。

自分にとって何が幸せかが大切だという話は、以前も書いた通り。

 

springplanting.hatenablog.com

 

これらの説明のに、認知症という診断名をことさら必要とする理由があるとすれば、それは何だろう?」

 

 

ここで、これまでの経験をたどってみると、

 

❶ 運転免許の返納を考えている:現在の道交法では認知症と断定されると運転を継続できない。「認知症を来す病気かもしれないが、発症はしていないため認知症とは言えない。」というグレーゾーンの存在は重要なポイント。

❷ 介護認定(介護サービスを受けるための制度)を受けたり、グループホーム認知症の方の居住型介護施設)に入所する予定がある:認知症という名称を、医師の診断名に盛り込むことを求められる場合がある。

認知症と断定されたら、患者さんが登録され発動されるパスがある:認知症ケアパスなどの地域のシステム

 

「私は認知症です。」と自己紹介されてわかることと言えば、

「コミュニケーションをとる時には少し注意しよう。」

「日常生活で、本人も気づかないうちにできてないことがあるかもしれないから、配慮しなきゃな。」

など。

少しマニアックに、原因と考えられている病気について学べば、TPOに合わせた対応もある程度は可能だし、互いの自己効力感も得られやすいだろうが…

 

単に『認知症か否か』を知ることにも、何か意味があるのだろうか?

❶〜❸以外の理由で、認知症の名称が必要な場面があるならば、どんな場面だろうか?

学びのネタ発見。

 

 

 

 

 

 

 

 

病気だから変わったのか、居場所が違うからなのか。

ある日突然、夜の幻覚妄想に襲われ近所に助けを求めた明治生まれの祖父。

 

springplanting.hatenablog.com

 

その時、すぐに病院に連れて行かれたのかどうかは覚えていない。

近所迷惑だから家に一人で置いておけないと、祖父が我が家へやってきたのは私が高校生の時だった。

彼が長年住んでいた場所は、大通り沿いの家や商店が軒を連ねる地域。周りは知り合いばかりで、商売を通じての取引もあった。

越してきた先は郊外の新興住宅地。周りには田畑、知り合いは誰もいない。道も知らない場所。

この家に遊びに来たのも数えるほどしかない。

そんな手がかりのない家で、祖父は一日中ストーブの端に肩肘を付き、頭を抱え、誰にともなく愚痴を言っていた。

 

東條英機の馬鹿野郎。日本が降伏したことは間違いだった。どうしてこんなことになったんだ。」

 

今思えば、いわゆる老年期のうつ病であったのだろうか。

それまでの祖父を、優しくも怖い存在だと私が感じていたのは、幼少期の記憶の中、祖父をその様な存在として扱っていた祖母の影響も大きかったということを、今なら理解できる。しかし、当時の私には、マイペースな彼が、自分の好き勝手に生活しているか、自分勝手に思い込んで落ち込んでいるか、どちらにしてもやりたいようにやっている、ただそれだけのこととしてしか理解できていなかった。

かつて、彼が自分勝手にあれしろこれしろとこちらに指図してきていた頃は、嫌々ながらもいうことを聞いていた。

一方で、彼が自分勝手に落ち込んでいる時は、好きにさせるでもなく、こちらがイラつき、元気に過ごすべきだと言葉で強要する。

彼はわがままで、自立しており、怖くて、私たちに指図する人であるべきだ、と言わんばかりに。

祖父にこれまで通りの祖父でいることを期待していたのだろうか。それが、相手を尊重することだと思っていたのだろうか。

彼自身のイメージは祖母の存在によっても作られていた。その祖母が居ない今、彼の存在感のフェーズが変わっていて然るべきだった。

祖母が居ない祖父が何を思い、何を求め存在していたのか、当時の私には注意を向けることはできなかった。

 

何を話しかけても、以前のような笑顔をみることはなく、徐々に話の辻褄も合わなくなっていた。

只々愚痴っぽい存在、肩を落とし、ご飯を食べ、座っているだけの存在としての祖父がそこにいた。

今思えば、家を出るでもなく、私たちの目の届く部屋に居続けてくれたことにも感謝できるのに、

そんな彼を見ているのが辛く、違和感が募っていった私。

そして誰よりもその存在に我慢できなくなったのは、祖父に歳の近い私の父であった。